Mag-log in王家の金庫に残されている金貨が、わずか百二十七枚だと告げられた後、月桂の間には長い沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは王妃だった。
「財務官、詳しい報告書を今日中に提出しなさい。支出先、承認者、担保へ入れた資産、借入金の返済期限まで、すべてです。持参金を本人の同意なく使用した件についても、誰が判断したのか確認します」
「承知いたしました」
「承知したという返事だけなら、誰にでもできます。今回の件は、王家の信用そのものに関わる問題です。書類を紛失した、担当者が退職した、以前からの慣例だったという説明は認めません」
財務官は何度も頭を下げ、逃げるように部屋を出ていった。
国王は不機嫌そうに腕を組んだまま、王妃へ言った。
「今、財務官を責め立てたところで金が戻るわけではない。国境防衛と外交には金が必要だった。使わずに金庫へ眠らせておくより、王国のために役立てたのだ」
第三十一話 月神の奇跡を見せよ ケイルの宣言が黒曜宮の大広間へ響き渡ったあと、月教会の使節団は言葉を失ったまま立ち尽くしていた。 歴代皇后が戴冠式と宣戦の儀でのみ身につけてきた黒金の外套を、ケイルは評議会の決議も戴冠の儀式も経ず、エララの肩へ掛けたのである。それは単なる愛情表現ではなく、彼女への攻撃を皇室と帝国への攻撃として扱うという、政治的な宣言でもあった。 集まった民衆の間から歓声が上がる一方、貴族席では困惑を隠せない者も多かった。セヴラン司教は驚きを押し殺すように目を伏せたあと、再び穏やかな笑みを作った。「陛下が一人の女性をどれほど大切になさっているかは、よく分かりました。しかし、皇后の外套を掛けたところで、神の裁きから逃れられるわけではございません」「逃げると言った覚えはありません」 エララは重い外套の前を整えながら答えた。「私は七日後の公開審問へ出席します。ただし、先ほど申し上げた条件を書面に記し、教会と帝国双方の立会人が署名してください。あとから審問の内容や判定条件を変えることは認めません」「真の聖女であれば、どのような試練にも耐えられるはずです。条件を細かく決める必要などないのではありませんか」「判定する者が教会であり、告発した者も教会なのですから、必要です。教会の望んだ結果が出るまで試練を加え続けることを、公平な審問とは呼びません」「神の代理人を疑うのですか」「人間である以上、間違える可能性はあります。私も、あなたも、大司教も同じです。それとも、月教会の聖職者は、一度も判断を誤らないと神へ誓えるのですか」 セヴランは答えなかった。 誓約を見る力を持つエララの前で、不用意に誓う危険を知っているのだろう。彼は数秒の沈黙を置いたあと、祭服の袖を整えた。「三日以内に条件をお届けすると、すでにお約束いたしました。今日のところは、これ以上お話しすることもございません。七日後、神の光が真実を明らかにするでしょう」
第三十話 偽聖女の引き渡し 炎の中に浮かび上がった銀色の目は、エララとケイルを見比べるように何度か動いたあと、縦長の瞳孔を細めた。 生き物のような動きではあったが、そこに人間らしい感情はない。ただ対象を確認し、記録し、遠く離れた誰かへ伝えるための冷たい視線だけがあった。離縁状へ仕込まれた月眼は、文書が燃やされる瞬間に発動するよう作られていたのだろう。つまり教会は、エララが帰国命令を受け入れず、ルシアンとの関係を拒む可能性まで予想していたことになる。 ケイルがエララを背後へ庇い、右手に黒炎を集めた。「その目を閉じろ。誰が見ているか知らないが、これ以上、私の宮殿を覗かせるつもりはない」「待ってください。壊す前に、つながっている先を確かめます」「危険だ。あれが監視だけの術式とは限らない」「だからこそ調べる必要があります。陛下の炎で焼けば、向こう側とのつながりまで消えてしまいます」 ケイルは納得していない顔をしたものの、黒炎を消した。昨夜までなら危険を理由にエララを遠ざけたかもしれないが、今は彼女の判断を尊重しようとしている。それでも、いつでも引き寄せられるよう腰へ回した腕は離さなかった。 エララはその腕に守られたまま、月眼へ意識を集中した。 銀色の瞳から伸びる糸は、黒でも金でもなかった。冷たい白銀の糸が幾重にも重なり、北宮の屋根を越えて南へ続いている。相手が結んだ契約の性質を読み取ろうとすると、頭の奥へ針を差し込まれたような痛みが走った。「これは、個人と結ばれた術ではありません。月教会の祭壇そのものへつながっています」「切れるか」「試してみます。ただ、普通の契約とは違います。術を使った者が責任を負うのではなく、歴代の聖女たちが神へ捧げた誓いを土台にしているようです。私が強引に切れば、どこかで別の聖女が傷つくかもしれません」「死者の誓いまで利用して、君を監視しているのか」「死者だけではありません。おそらく
第二十九話 帰らないという選択「している。自分でも呆れるほど、ひどく嫉妬している」 逃げ道を塞がれた末の告白だったからか、ケイルの声には甘さよりも苦さが滲んでいた。彼はエララから目を逸らさずにいたが、その姿は返事を求めているというより、自分の醜い感情を差し出し、拒まれる覚悟をしているように見えた。 エララは胸の奥が温かくなるのを感じたものの、すぐに喜びを口にすることはできなかった。嫉妬されて嬉しいと言えば、彼が苦しんでいることを面白がっているように聞こえる。それでも、自分を失いたくないと願う人がいる事実は、長く誰かの役に立つことでしか居場所を得られなかった彼女にとって、簡単に受け流せるものではなかった。「正直に話してくださって、ありがとうございます」「礼を言われるような感情ではない。ルシアンの名を聞くだけで腹が立ち、あの肖像画を燃やしたいと思った。王妃の暗号がなければ、額縁ごと暖炉へ入れていたかもしれない」「そこまで嫌でしたか」「嫌だった。幼い頃の絵だと分かっていても、あの男が君の肩へ腕を回している。それを君が懐かしそうに見ていると、私の知らない時間を見せつけられているようで、どうにも落ち着かなかった」「私は、懐かしいとは思いました」 ケイルの眉がわずかに寄ったが、エララは言葉を取り繕わなかった。「同時に、苦しいとも思いました。あの頃の私は、ルシアンの隣で微笑むことが自分の幸せだと信じていましたから。絵の中の自分を見ていると、その子へ何を教えてあげればよかったのだろうと考えてしまうのです。もっと早く逃げなさいと言うべきだったのか、それとも、あなたが信じた気持ちまで恥じなくてよいと伝えるべきだったのか、自分でも分かりません」「両方でよいのではないか」「両方ですか」「信じたことは恥ではないが、傷つけられ続ける必要もない。幼い君が間違っていたのではなく、その信頼を利用した者が間違っていた。私なら、そう言う」 エララはしばらくケ
第二十八話 嫉妬深い竜の質問 肖像画の裏から浮かび上がった王妃セラフィーナの救援要請は、月光が雲に遮られると同時に消えた。 銀色の文字が見えなくなったあとも、エララには王妃の切迫した声が聞こえているような気がした。ルーナ王宮は教会の手へ落ち、王も王太子も人工の番印によって判断を歪められている。かつて王妃がどこまで真相を把握し、誰を信じて準備を進めていたのかは分からないが、教会の監視をかいくぐって暗号を残した以上、危険が迫っていたことだけは間違いなかった。 エララは肖像画を胸元から離すと、月明かりの残る卓へ慎重に置いた。「この暗号が書かれたのは、十年以上前です。当時から王妃陛下は、教会が王家を操っていると気づいていたのでしょうか」「暗号そのものは、最近書き加えられた可能性もある」 ケイルは肖像画の裏板を調べながら答えた。表面の木は年月を経て黒ずんでいるが、裏紙の一部だけは接着剤の色がわずかに新しい。「古い肖像画を隠し場所に選び、君が婚約を拒絶したあとで文章を追加したのかもしれない。そうでなければ、『この絵があなたのもとへ戻されたとき』などという書き方はしないだろう」「王妃陛下が自分で封筒へ入れたと思いますか」「その可能性は低い。使者を自由に動かせるなら、もっと分かりやすい方法で助けを求められたはずだ。王妃はルシアンがこの絵を君へ送ると予想し、先回りして暗号を隠したのだろう」 ケイルはそう分析しながらも、肖像画の表へは視線を向けようとしなかった。少年時代のルシアンが幼いエララの肩を抱いている構図を、意識して避けているのが分かる。 リナは二人の間に流れる微妙な空気へ気づいたらしく、肖像画の上へ布をかけた。「大切な証拠ですので、傷がつかないよう包んでおきます。決して、陛下が御覧になるたびに不機嫌なお顔をなさるからではございません」「私は不機嫌な顔などしていない」「左の眉が普段より上がっております」「生まれ
第二十七話 返送された離縁状 銀盆に載せられた白い封筒は、かつての婚約者から届いたものとは思えないほど冷たく見えた。 表には、『我が婚約者エララへ』と記されている。何年も見慣れていたルシアンの筆跡だった。文字の形は昔と変わらないのに、そこに込められた意味だけが、今ではまるで違って感じられる。 我が婚約者。 エララが自ら婚約を拒絶し、古い誓約を断ち切ってからも、ルシアンは彼女を自分のものとして扱っている。竜皇ケイルと正式な契約を結び、ノクサール帝国の皇妃となった事実さえ、彼にとっては一時的な反抗にすぎないらしい。「開封なさいますか」 書記官が尋ねた。 エララはすぐに答えられなかった。封筒の右下に押された王太子の印は本物であり、その周囲には肉眼では見えない黒い糸が細かく絡みついている。文面を読む前から、偽りと責任転嫁が詰め込まれていることだけは分かった。「危険な術式が仕込まれている可能性は?」「魔術師が確認いたしましたが、呪いや毒は検出されておりません。ただ、ルーナ王国の外交使節は、皇妃殿下御本人へ渡すまでは中身を開くなと強く要求しております」「陛下は、この手紙が届いたことをご存じですか」「はい。先ほど報告いたしました」 エララが窓の外へ目を向けると、正門前ではケイルが民へ向かって頭を下げていた。自らの過ちを認め、妻に対する命令を撤回する彼の姿を見ながら、元婚約者から届いた親書を開くという状況は、あまりに皮肉だった。「ここへ置いてください。読むかどうかは、少し考えます」 書記官は銀盆を窓辺の卓へ置き、深く一礼して退室した。 扉が閉まったあとも、エララは封筒へ近づかなかった。 リナは薬草茶を用意しながら、何でもないことのように尋ねた。「燃やしましょうか」「まだ読んでもいないのに?」「だからこそです。読む前なら
第二十六話 守られるだけの妻ではない 紫色の煙の向こうで、銀の刃が振り上げられた。 エララは考えるより先に踏み込んでいた。ルーマを抱える女との距離は、わずか三歩だったが、人の命が失われるには十分すぎるほど遠い。護衛たちは人質を傷つけることを恐れて剣を振れず、ケイルもまた、黒炎を放てばルーマまで巻き込むため動けない。 刃が少女の首へ落ちるより先に止められるのは、自分しかいなかった。「私と契約しなさい!」 エララの声に応じて、胸の奥にある聖女の力が一気に目覚めた。伸ばした右手の甲で金色の契約印が輝き、そこから生まれた細い光の糸が、紫煙の中を駆け抜けて女の手首へ絡みつく。 女が目を見開いた。「何をしたの!」「あなたは、ルーマを殺せば依頼人から家族を返してもらえると約束されたのでしょう。けれど、その約束は偽物です。あなたの家族は最初から返すつもりなどなく、今もどこかに捕らえられている」「黙れ!」「黙りません。私には、あなたを縛っている偽りが見えます。もし私の言葉が間違っていると思うなら、ここで誓ってください。ルーマを解放し、私たちの調査に協力する。その代わり、私はあなたの家族を捜し、必ず生きて連れ戻します」 女の顔が苦痛に歪んだ。ルーマの喉へ押し当てた刃は震えているものの、まだ離れない。「あなたの言葉を、どうして信じられるのです。皇族は私たちを道具としか見ていない。あの人たちは、娘を助けてほしければ皇女を殺せと言った。失敗すれば、娘の指を一本ずつ切り落として送ると……」「だからこそ、ルーマを殺してはいけません。あなたが命令に従えば、彼らは次も同じ方法を使います。今回だけで終わると思わせていること自体が、あなたを支配するための嘘なのです」「分かったようなことを言わないで! あなたには、子供を奪われた母親の気持ちなど分からないでしょう!」「分かりません。分かるふりをすれば、それこそ







